_____たべものブログ、プロローグ。
ある日のこと、ぼくは背すじに氷がつたうようにゾクッとした。
身体全体がブルッときた。
そして、まわりの風景が揺らめきだした。
「地震かな?」
しかし、吐き気もしてきた。
ゾクッの、ブルッの、クラッの、オエッである。
これは尋常ではない。
地震じゃない、風邪だ。
こりゃあ仕事してる場合じゃない。
果たして一日仕事は休み、ってことにした。
さあ、一日フルでなにしよう。
映画のDVDみて、買いだめしてた本を読んで、録画してまだみてないテレビ番組みて・・・。
ふだんなかなかゆっくりできないつかの間の休みの過ごし方にしばし思いをめぐらせていた。
しかし・・・。
容態がおかしい。
ゾクッのブルッのクラッでオエッだから、当然熱があると思われたが、測ったところ熱はない。
ぼくは風邪を引くと、腰を中心に節々が痛くなるのだが、それに加えてイレギュラーにも腹痛が襲い掛かった。
人間の身体のまん中の部分が前と後ろで痛み出した。
腰をバットで叩かれつつ、腸をグローブでワシづかみにされているようだ。
「ファインプレイ!」
そんなこと言ってる場合ではない。
腰の痛みを後ろから押され、お腹の痛みを前から押されているようだ。
「おなかとせなかが、くっつくぞ♪」
歌ってる場合ではない。
結局、下痢をしていたわけだが、なにも食べられない状態になってしまった。
ぼくは風邪をひいても食欲はなくならない。むしろたいてい食べて直す。
ところがこのときばかりはなにも食べられない、食べ物を受け付けなくなってしまった。
食欲はある。でも受け付けない。
これはもう、人格が変わる。
子供のころ、よく風邪をひいたとき、親はやさしくなり、
「なにか食べたいものをいいなさい、なんでも買ってきてあげるから」
とか言われたことがある。
そういうときは、ふだん食べられない、
「ショートケーキ」
とか、
「アップルパイ」
とか、子供心に可愛くここぞとばかりに頼んだりするが、そんなときでもぼくはすかさず、
「毛ガニ」
と答えたものだ。
(うちの親もまた、自分が食べたいものだから、ここぞとばかりに本当に買ってきたりしたが)
しかしこの日は状況がちがう。
食べたら食べた分がそのまま直通で出ちゃいそうな気がする。
寝ていても食べられない思いつのり、さまざまな食べ物が朦朧とした頭を駆け巡る。
(直ったらあれも食べて、あれも食べて、これも食べて・・・)
そんなわけで、約2日間、絶食あるいは流動食に甘んじていたぼくは、3日目にして早や全快と相成った。
このときぼくの食欲はとどまることを知らなかった。
さあ、なにを食べよう!?
真っ先に浮かんだのは、大好物コンビのラーメンとカレーライスである。
しかし、いまやそんないわばB級グルメでは飽き足らない。
寝床で食べ物の妄想にうなされ続けていた人間が、2日間の絶食から開放され街に出てきてるんだから、それはもはや人間ではない。野獣が街に放たれたようなもんだ。
「がるるるるるるる・・・っ」
うなりながらぼくは街をさまよい歩いた。
ステーキにするか・・・とんかつにするか・・・うなぎにするか・・・寿司にするか・・・
とんかつにするか・・・寿司にするか・・・うなぎにするか・・・ステーキにするか・・・
(野獣のわりには、わりとレパートリーが少ない)
う、まずい。
寿司はまだ危険かもしれない。寿司はまだやめておこう。
じゃ、うなぎか。
しかしうなぎにしても、スーパーなんかで売っているパックに入っているようなもんじゃだめだ。
ああいううなぎは皮がゴム製である。
箸で押さえて食いちぎろうとしても、びよーんと伸びる。
箸を離すと、ゆうとぴあの往年のゴムパッチンのようにくちびるにバチーンと跳ね返ってくる。
ゴムパッチンはいやだ。
やはり名店といわれるようなお店で食べたい。
お客の顔を見てから裂いて、串を打って、蒸して、焼いて、と、注文してから1時間以上待たすような店で食べたい。
しかしいまのぼくにとっては、この待ち時間は死ぬほどつらい。
うなぎは、パス。
ではステーキか。
ステーキもへたなお店では食べられない。
薄い、硬い、変な味のソースがかかってる、なんてよくあることだ。
ステーキにいちばん合うソースは実は醤油なのだ。
熱したフライパンに油をひき、ニンニクスライスを炒める。
この香ばしい香りの油で焼いたステーキに醤油をかけて食べるのがいちばんおいしい。
少なくともぼくはそう思っている。
そういうステーキは、自分で焼くか神戸あたりに行かなければならない。
いまから神戸・・・。
確実に死んでしまう。
ステーキも断念。
無難なところでとんかつを食べようと相成った。
とんかつもこだわると大変だ。
でもこれはすんなりどこのお店で食べるか決めた。
銀座の老舗洋食店、煉瓦亭。
まっさきにこのお店が浮かび、それ以外のお店は浮かばなかった。
煉瓦亭ではいまだにとんかつをカツレツという。
カツにキャベツの千切りを最初に付けたのがこのお店なのだ。
老舗中の老舗なのだ。
善は急げで銀座に向う。
しかし、時は昼時。
お店の前は長蛇の列。
サラリーマンやOLも多い土地柄、昼休みにぶつかってしまった。
あんたらとちがってぼくは昼休みに悠長に並んでいるひまはないんだよ、
心あるならぼくをいちばん前に入れなさい。
なんていえるはずもない。
もうお腹がすいて倒れそうだ。
しかもぼくの心はいまやとんかつ一色になっている。
ぜがひでもとんかつを食べないではいられない。
なにがなんでも、命にかえてもとんかつを食べなければなにをするかわからない、という状況になっていた。
しょうがない、煉瓦亭はあきらめて向かいのとんかつ屋に入るか。
ここ、名前をいつも覚えられないのだが、おいしいのである。
とんかつのほか、メンチカツもおいしい。
しかも煉瓦亭に大半のお客をとられているせいかやたら愛想よく、やたら感じがいい。
ぼくはこのお店で迷わずロースカツ定食を注文した。
果たして、妄想の末に食べたロースカツはうまかった。
かくして、肉に飢えた野獣は無事本懐を遂げたのであった。

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